礼拝説教要約「すべての人を喜びあふれる神の家族へ」(2026/9/20)を掲載しました 

担当   熊江 秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マタイによる福音書 28章16~20節  詩編 23章1~6節 

 大宮教会ヴィジョン「すべての人を喜びあふれる神の家族へ」の中心聖句が与えられた。

この時、弟子たちはマリアたちの伝言により、ガリラヤへ行き、イエスの指示された山に登った。そして復活の主と出会い「ひれ伏した」(礼拝した)。復活の主によって召し集められ、主を礼拝する。この弟子の姿は教会の原型である。

 しかしこの時の弟子は1人欠けていた。また「疑う」者もいた。この「疑う」は14章にも登場する。嵐の湖を主が歩いて来た時、沈みかけたペトロを助けつつ「なぜ疑ったのか」と語った言葉である。主から目をそらし、嵐の波風に目を向けた時、心が離れ「疑う」のである。この弟子は私たちの姿である。私たちも主によって集められ礼拝しつつも、欠け多く、疑いと弱さを持った群れである。

しかし復活の主は私たちを見捨てない。むしろ私たちを欠けや疑いがあるままに、召し集め、ご自分の「権能」を示して、礼拝の民にして下さる。

そして復活の主は召し集めた教会の民を遣わす。「すべての民を主の弟子とする」を中心に、「行く」「洗礼を授ける」「教える」という4つの動詞からなる宣教の使命に遣わすのである。

「主の弟子とする」は「兄弟とする」という意味も含まれる。隣人を主にある兄弟姉妹として受け入れ、愛し、主に愛された神の家族とするのである。そして私たちは、弟子たちが山を下りて宣教に遣わされていったように、低く降る者となって、主の証人として遣わされる。

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主は遣わした私たちと共におられる。この約束は死をも越える約束である。大宣教命令によって遣わされて、「すべての民を喜びあふれる神の家族へ」大宮教会ヴィジョンに共に生きよう。
 

 



  



 

  

 

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