礼拝説教要約「献げられた主の体」(2026/9/6)を掲載しました 

担当   熊江 秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  ヘブライ人への手紙 10章1~18節  詩編 40章1~12節 

 ヘブライ人への手紙は「礼拝に生きる心」を教える。大祭司キリストを見上げ「大胆に恵みの座に近づく」のである。

地上の礼拝は天上の礼拝の「雛形」(写し)である。しかし地上の礼拝は、大祭司キリストにあって天の礼拝とつながり、天の恵みが与えられ、私たちの祈りや賛美は天に届けられる。

旧約の時代、人々は礼拝の度にいけにえを献げて、罪の赦しを願った。しかし罪の赦しにはならず、罪の記憶がよみがえるのみであった。人間の側からのいけにえを神は喜ばれなかったからである。そんな私たちのためにキリストが来られた。

「いけにえも供え物もあなたは喜ばれなかった。その時、私は言いました。『ご覧ください。私は来ました。神よ、御心を行うために』」。

詩編40編はダビデによるキリストの歌である。律法に従い、何度いけにえが捧げられても罪の赦しにはならなかった。しかしキリストが来て、御自分の体を献げ、罪の犠牲となって下さったゆえに、私たちは神の前に罪を赦された。この詩編はキリストの十字架によって実現した。もはやいけにえは必要ない。

今やキリストは天において、神の右の座に着いて、神の敵がご自分の足台となり、救いが完成する時を待っておられる。キリストの贖いが実現した今、勝利はキリストにあり、悪魔の誘惑は敗残兵のあえぎにすぎない。そしてキリストはすべてを支配するお方として、私たちを執り成し続けておられる。大祭司キリストは、救いが完成する時まで、私たちを執り成し続け、天で礼拝を捧げておられる。

地上の礼拝において、天のキリストが神の右におられ、今も礼拝を捧げて、私たちを執り成す姿を仰ぎ見ることができる。何と幸いなことか。大祭司キリストの執り成しの中、神の民として共に歩もう。
 

 



  



 

  

 

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