闇の中の光(2019/09/01 熊江秀一牧師)

「闇の中の光」ゼカリヤ書14章4節~7節/ヨハネによる福音書13章21節~30節

熊江 秀一牧師

振起日にイスカリオテのユダの裏切り予告の箇所が与えられた。弟子の足を洗われ、互いに足を洗い合うことを教えた主は、弟子の一人が裏切ることを「断言」する。しかし主は「心を騒がせ」断言した。主は心痛め、平静ではいられなかったのである。この「心を騒がせ」は、ヨハネが用いる主のお姿である。主は十字架という使命の前にも「心を騒がせ」られた(ヨハネによる福音書12章27節)。主はこの使命を歩み出し、私たちのために十字架の道を歩み、私たちの罪のあがないとなられた。

ユダはなぜ主イエスを裏切ったのか。ユダは神の祝福を思わせる名前である。またユダは金入れを預かるほど信頼されていた。裏切りの理由は様々考えられる。しかしヨハネはただ「サタンが彼の中に入った」と記す。またこの「裏切る」の意味は文字通りよりも「渡す」である。だから裏切りは強い憎しみからではなく、ちょっと魔が差したぐらいの気持ちだったと思われる。

これはだれでも主を裏切ってしまう可能性があるということである。私たちは主をほんの少しのことで否定し、引き渡してしまうのである。それは「夜」のような私たちの、罪の闇の現実である。

旧約聖書・ゼカリヤ書にオリーブ山を登られる主の預言がある。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」。ユダも含めた私たちの罪の現実は光がない。闇の現実である。しかしその闇のただ中に主イエスが来られる。その日、「夕べになっても光がある」。光のない闇の現実に十字架の主の光が輝くのである。さらに「その日、エルサレムから命の水が湧きいで」る。十字架の主は私たちの罪の闇の中で、光を放ち、命の水を与える。この主の光に照らされて、希望を持って歩もう。

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