弟子の足を洗う主(2019/08/04 熊江秀一牧師)

「弟子の足を洗う主」ホセア書11章8節~9節/ヨハネによる福音書13章1節~8節

熊江 秀一牧師

平和聖日に主が弟子の足を洗った箇所が与えられた。ヨハネの最後の晩餐は他の福音書と違い「過越祭の前」すなわち前日である。そこにはヨハネの理解する過越の羊としての主イエスの姿が込められている。この翌日、過越祭の日、犠牲の小羊が屠られる時に、主は神の小羊として十字架で殺されるのである。

この時代、足を洗うのは奴隷であった。その一方でこの行為には深い愛が込められる。私たちは子どもや病の伴侶や親の元にひざまずいて体をきれいにする。愛ゆえである。主イエスは僕となって、深い愛をもって弟子の足を洗った。この時主は「上着を脱いで」足を洗った。「脱ぐ」は「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」の「捨てる」と同じ言葉である。この行為は羊である私たちを救うために命を捨てるという主の十字架の愛を示す。

しかしこの時、弟子の一人ペトロは恐縮し辞退しようとする。それに対し、主は「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の係わりもないことになる」と告げる。ペトロは最も大切なこと、主の十字架の愛が分かっていなかった。

主イエスの愛をいただき、その愛に生かされて歩むこと。それが主イエスの弟子である最も大切なことである。しかし私たちはそのことを忘れ、神の恵みを拒否してしまう。ペトロの申し出は一見謙虚に見える。しかしそれは主イエスを必要とせず、主の恵みを拒否している姿である。主の前での謙虚さとはその恵みをただ受けることである。そしてそれが主の弟子にとって最も大切である。

教会とは主の食卓に招かれ、主に足を洗っていただき、十字架の血潮によって身も心も洗っていただく群れである。ここに私たちの平和の道がある。

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