主イエスが来られた意味(2019/07/21 熊江秀一牧師)

「主イエスが来られた意味」申命記18章15節~19節/ヨハネによる福音書12章44節~50節

熊江 秀一牧師

今日の箇所で主イエスは、ご自分が来られた意味を語る。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た。」主は3章16節で語った神の愛と救いの言葉を「わたしは」とご自分を主語にして、しかも前回のようにご自分をイザヤが預言した苦難の僕であることを明らかにして宣言する。

この時、主イエスはこの御言葉を「叫んで」言われた。主が叫ぶ時、私たちの罪や死の現実を断ち切る思いが込められる。私たちは御言葉を聞いても受け入れない現実にある。そんな私たちに主は「わたしはその者を裁かない」と叫び、救いを宣言する。

しかし主は「裁かない」と語ると同時に「裁くものがある」。御言葉がその者を裁くと宣言する。この原意は「裁くものを持つ」。その者自身が裁くものを持っているのである。例えるとそれは影である。光に照らされた者は影を引きずって歩く。そのように御言葉の光に照らされた者は、自分の罪という影を知り、裁きを引きずって歩むのである。

しかしその裁きによって私たちは滅ぼされるのではない。本当の救いを得る。主は語る。「父が、わたしの語るべきことをお命じになった」「父の命令は永遠の命である」。父なる神の命令を守った者が永遠の命を得るのではなくて、その命令自体が永遠の命であると言う。父なる神の命令に生きる者は、既に永遠の命を歩んでいる。その命令を主イエスが届けて下さった。

この言葉は、この後のカギとなる。この「命令」はこの後、繰り返して語られる「掟」と同じ言葉である。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」。主がその命をもって与えてくださった掟、それが父なる神の命令であり、永遠の命である。

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