「主の御腕は、だれに」(2019/07/14 熊江秀一牧師)

「主の御腕は、だれに」イザヤ書6章9節~13節/ヨハネによる福音書12章36節b~43節

ヨハネ福音書はラザロの復活にいたるまで多くの主のしるしを語ってきた。しかしヨハネはこの主のしるしに対する人々の結論として「彼らはイエスを信じなかった」と告げる。

この人々の不信に対して主は「身を隠された」。それは光を信じなかった世に、光が隠され、闇となったことを意味する。この後、主が再び民の前に現れたのは、裁判であった。そして「十字架にかけろ」との人々の叫びの中、主は十字架で殺される。光を信じることができない世は、神の子さえも殺すのである。

今日、部落解放祈りの日にあたり、この世の現実を思う。光を信じない罪の現実は私たちの現実である。

この主の姿を、ヨハネは既にイザヤによって預言されたと告げる。イザヤの告げた背いた私たちの過ちを負い、執り成しをして死んだ苦難の僕こそ十字架の主である。

ヨハネは人々が主を信じなかった理由もイザヤは告げたと言う。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」。この原因は神にあるのではない。人の罪ゆえである。私たちの罪の裁きとして心の目は閉じられ、かたくなにされたのである。

預言者イザヤはそのような民に遣わされた。激しい拒絶も受けた。しかしイザヤはその中で神の救いのご計画を見る。それは主の僕が苦難を受けることで与えられる栄光である。私たちのかたくなな心をいやすのは苦難の僕、主イエスである。主が十字架の愛を持って私たちをいやし、平和を与えて下さる。

闇のような現実が今なおある。しかしイザヤの預言した主イエスの栄光はすでに私たちの只中で実現している。光は闇に勝っている。主の十字架によっていやされた光の子として、主を証しして歩もう。

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