主イエスの歩む道(2019/05/12 熊江秀一牧師)
「主イエスの歩む道」イザヤ書49章5節~9節/ヨハネによる福音書11章45節~57節
熊江 秀一牧師
イースターをはさんで、ラザロの復活物語を読んできた。ラザロの復活は、主の復活によって本当の意味を持つ。そしてその時、それは私たちの復活物語となる。私たちはこの福音書の真ん中、山の頂にあるこの物語を通して、死の力に打ち勝つ主の栄光の姿を見てきた。しかし山頂はこれから下っていく道をも見渡せる。この栄光の主が歩む道を見渡せるのが、今日の箇所である。
主イエスの歩まれる道。それは受難・十字架の道である。
イエスがラザロを復活させた出来事は波紋を生み、最高法院が召集される。その結果、イエス殺害が決議される。メシアを待ち望んでいた彼らは、イエスをメシアとは認めず、殺害しようとする。しかしその時、神は大祭司カイアファをお用いになって、主イエスの歩む道を預言する。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたに好都合だとは考えないのか」 イエス殺害を提案したこの言葉を用いて、神は主イエスの贖いの預言をなさる。主イエスが全国民のために死ぬ。しかも散らされている私たち神の民を一つに集めるために死ぬことを預言する言葉になった。神は旧約聖書では弟ヨセフを奴隷として売り飛ばす兄たちの悪を用いてイスラエルを滅びから救った。今や神は、神の子を十字架にかけて殺すという人間の罪の極みを用いて人類を救われる。
ついに主イエスが人の罪を取り除く神の小羊として自分をささげる、その過越祭がやってくる。次章以降、主イエスは過越祭りにいよいよエルサレムに向かわれる。
教会はこの主イエスによって集められ、主の十字架の愛と命が満ちている。この群れで主の恵みを喜び、十字架の愛を証ししていこう。