復活の主に遣わされて(2019/05/05 熊江秀一牧師)
「復活の主に遣わされて」イザヤ書11章6節~10節/マルコによる福音書16章9節~18節
熊江 秀一牧師
マルコ福音書の復活物語に、特徴的な言葉が3回登場する。それは「信じなかった」である。弟子たちは主の復活を信じることができず、主はその姿を「おとがめ」になる。しかし復活の主は、その弟子たちと出会ってくださる。
後の時代に加筆された9節以下の復活物語は、他の福音書のダイジェスト版である。人々はこの箇所を、他の福音書の復活物語と重ね合わせただろう。そして復活の主との出会いによって、不信とかたくなと恐れにあった弟子たちが、心の目が開かれ、主に用いられたことを心に刻んだ。
この復活の主との出会いに、私たちの信仰の原点がある。そして主は、弟子たちをこの世の隅々に遣わす。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。復活の主は、私たちが生きているそれぞれの場に遣わし、そこで救いの福音を宣べ伝えるようにお命じになる。それは隣人に福音を届けるとともに、被造物世界が福音の恵みに満ちるためである。
そして復活の主は、この救いのために洗礼を授けることをお命じになる。教会は「信じて洗礼を受ける者は救われる」との主の宣言の中、洗礼を神の業として執り行う。
さらに主は、宣教命令に併せて信じる者に伴うしるしを告げる。それは私たちを苦しめるすべての力からの解放と、イザヤ書に預言された平和の実現である。
ここで特徴的なしるしは「新しい言葉を語る」である。不信の中で裁き、呪い、自己正当の言葉を語ってきた私たちが、主を信じるとき賛美と祝福と慰めという新しい言葉を語るようになるのである。時代は変わっても、主の福音は変わらない。ともに復活の主に遣わされ、すべての造られたものに福音を宣べ伝え、新しい言葉を語ろう。