我が主、我が神(2019/04/28 高橋真之伝道師)

「我が主、我が神」詩編170編7節~8節/ヨハネによる福音書20章24節~29節

高橋 真之伝道師

主イエスの12弟子のひとりであるトマスは、最も不信仰な弟子のひとりとして聖書に記されている。後に彼は「疑い深いトマス」とあだ名されることになるのだが、彼はただ疑い深いだけではない。彼は主イエスの命の危険い際して「わたしたちも(主イエスと)一緒に行って死のうではないか」と言えるくらい勇ましい弟子であったのである。

しかし、彼は主イエスの十字架を前に躓き、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまった。彼は自分の言葉通りに生きることはできなかった。彼はどんなにみじめさを覚えたことだろう。そんな彼は、他の弟子たちに合わせる顔がなく、彼らと一緒に居ることができなかった。だから、他の弟子たちが復活の主イエスと再会したとき、彼だけが出会い損ねてしまった。

そんなトマスに、他の弟子たちは「私たちは主を見た」と告げる。しかし、彼は信じなかった。彼の心の中には、主イエスの復活を信じることを妨げる様々な壁があったからである。だから彼は言う.「主の傷跡に私の指を入れなければ、私は決して信じない」。

そんなトマスのところに、主イエスは真っすぐにやってきた。そして、あなたが言ったとおりのことをしなさいと彼に告げる。なぜか? それは、このとき最も疑い深く信仰の弱い彼に、復活を信じてほしかったからである。そのためだけに、主イエスは彼のところに壁を越えてやってきたのである。

そんな主を見たトマスは、もはや主の体には触れなかった。彼にとって主の傷跡を見るだけで、それで十分だったからである。そしてその傷跡は、弱いトマスのために十字架に架かったためであったことをトマスは知った。そんな彼の口からは「わたしの主、わたしの神よ」との言葉がこぼれ出た。この最も弱いトマスが発した言葉は、教会の大切な信仰の言葉となった。私たちもトマスと同じく弱い。しかし、イエス・キリストは、その弱い私たちのための主、神であることを、私たちがこの言葉を口にするたび、心に刻み付けるのである。

最後に、主イエスは「見ないで信じる人は幸い」と言った。これは見て信じたトマスを裁く言葉ではない。トマスを、私たちを「見ないで信じる幸い」に招く言葉である。弟子たちはこの招きに応え、主イエスが天に昇られ見えなくなった後も、恐れず大胆に、主イエスは「我が主、我が神」と述べ伝えた。そして、彼らに続く。私たちがいる。

私たちもこの招きに応え、主イエスを「我が神、我が主」と告白していこう。

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