礼拝説教要約「生きた神の言葉」(2026/5/3)を掲載しました 

担当   熊江 秀一 牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  ヘブライ人への手紙 4章1~13節  創世記 2章1~3節 

 第一部のまとめとして、神の安息について語られてきた。安息は天地創造以来、祝福として与えられ、すべての人が安息へ招かれている。

しかし私たちは神の安息を拒絶した。そこに人間の罪がある。それでも神は安息へ招き続けた。出エジプトの時、神はモーセによって神の民を安息へ招き入れようとした。しかし民は心がかたくなであったため、あずかることができなかった。これは私たちへの警告である。

その際、御言葉と「交ざり合う」(新共同訳「結び付く」)ことを語る。御言葉と私たちが信仰によって「結び付き」、御言葉を聞いた人々と「交ざり合う」。ディボーションの姿である。

そして心に留めたい。神は安息にあずからせるために主イエスを遣わされたことを。

「ヨシュアが彼らに安息を与えたのであれば」は、ギリシャ語ではイエスとなる。この書を聞く人は思っただろう。イスラエルを導き上ったのはヨシュアだ。しかし私たちを神の安息に導き上るのはイエスだ。

私たちを神の安息へと導いて下さるお方は主イエスである。

なぜイエスは私たちを安息へとお導きになれるのか。彼こそ、受肉した生ける神の言葉だからである。

「神の言葉は生きている」。主イエスこそ、受肉した生ける神の言葉である。この神の言葉は「いかなる両刃の剣よりも鋭い」。罪という病巣を切り離し、私たちの罪も汚れも明らかにする。それは感謝である。しかし一方で「神に弁明しなければならない」恐ろしいことである。

しかしこのお方は、私たちの大祭司である。

イエスは大祭司として私たちを十字架の命で執り成して下さる。

だから私たちは安息にあずかり、神の祝福の中で憩うことができる。 教会はこのお方に導かれて神の安息へ旅する群れである。共に信仰の旅を歩もう。

 



  



 

  

 

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