礼拝説教要約「主に遣わされて」(2024/3/3)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(新共同訳)
  
  マルコによる福音書 6章6b節~13節   エゼキエル書 2章1節~3章3節

■説教要約

主イエスは12人を宣教に遣わした。人々の不信仰のただ中で「悔い改めさせるため」である。
「12」は新約の時代、新しいイスラエルである教会の民を示す。この12人の宣教は私たちに教会の使命を示す。

 この時、主は「二人ずつ組にして遣わ」した。教会はこの主の言葉を大切にしてきた。共に助け合って宣教するため。そして宣教を自分の力、自分の働きと思い上がることなく、謙虚に仕えるためである。この二人組は牧師と信徒と言い換えることもできる。

 「旅には杖一本のほか何も持って行ってはならない。パンも、袋も、また帯の中に金も持ってはならない」。この言葉にも主の前の謙虚さが込められている。この姿は出エジプトのイスラエルの荒野の旅を思わせる。モーセが杖一本で民を導いたように、唯一の主という杖を支えとし、今与えられているものだけで旅をするのである。

しかし主は12人にこの世のどんな物にも勝る、宣教の武器として「汚れた霊に対する権能」を与えた。これは、主の十字架と復活の後、主の御名によって祈ることである。主の御名によって祈ることこそが、私たち神の民に与えられた力と権能である。

 また主は、遣わされた「その家にとどまって」じっくり宣教することを教えられた。しかし受け入れない所に対しては「足の裏の埃を払い落として」出て行くことを教えた。それまでの宣教も、人々もすべて神にゆだね、お任せすることである。宣教は自分のものではなく神のもの。そのことを忘れてはならない。すべてを神にゆだねる謙虚さこそが大切である。その時、私たちに勇気と大胆さが与えられる。

 私たちも主に遣わされた群れである。主が共にいることを確信し、謙虚に、主のものである宣教に仕えよう。



 



 



  



 

  

 

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