主の名によって願うならば(2019/11/03 熊江秀一牧師)*説教音声あり

「主の名によって願うならば」ミカ書7章8節~10節/ヨハネによる福音書14章6節~14節

熊江 秀一牧師

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「わたしは道、真理、命である」。この御言葉は前回示されたような文字通りの意味と共に、主イエスが神であるとの宣言でもある。旧約聖書で神の名として告げられた「わたしはある」(出エジプト記3章14節)がここに込められる。

今日の箇所では、そのことを主ご自身が明らかにする。「わたしを見た者は、父を見たのだ」「わたしが父の内にあり、父がわたしの内におられる」。ある人によればヨハネが最も告げたい真理はこれである。父なる神と主イエスはひとつ。主イエスを見ることは、神を見ること。だから主イエスの言葉は神の言葉であり、主イエスの御業は神の御業だと主は宣言する。

このことはさらに二つのこととしても言い換えられる。そのひとつは主イエスの言葉が記された聖書は神の言葉ということである。もうひとつは主イエスを頭とする教会の働きは主の業ということである。しかもここで主イエスは、主を信じる者は「わたしが行う業を行う」のみならず「もっと大きな業を行うようになる」と告げる。これは主の十字架と復活の後、教会に託された福音宣教の業は、主の十字架以前のどんなしるしや奇跡にも勝るということである。私たちは教会の宣教の無力さを嘆く。しかし宣教はどんなに小さく弱くても主の御業であり、どんな奇跡にも勝るのである。

そして最後に大きな恵みを主は約束する。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」。主の名によって祈る時、私たちの祈りは神に聞き入れられ、かなえられる。主が私たちの祈りを執り成して下さるからである。私たちは主の名によって祈るために選ばれた。神は祈る者を用いて御業を行い、栄光を表すのである。

主の名によって願うならば(2019/11/03 熊江秀一牧師)*説教音声あり” に対して1件のコメントがあります。

  1. 古久根章典 より:

     説教の音声の公開ありがとうございます。
     イエス様の十字架による救いが実現した後の信仰者による「救いの福音宣教」は、神の御心の実現(十字架による救いの実現)に向けた行動そのものであることから、十字架による救い以前の聖書上のどんな奇跡よりも「もっと大きな業」と言っているのだと思いました。
     したがって、信仰者の福音宣教という行動が神の御心の実現に向けたものであるか否かは、祈りを持って正直に吟味する必要があり、その場合の判断基準も意識する必要があろうかと思いました。。

     ※ 今回の説教音声の公開につき、HP上に聖書個所の明示がありません。明示していただいた方が良いと思   います。

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