エルサレム入城(2019/06/02 熊江秀一牧師)

「エルサレム入城」ゼカリヤ書9章9節~10節/ヨハネによる福音書12章12節~19節

熊江 秀一牧師

エルサレム入城から主の受難が始まる。ヨハネはそれを、主がラザロをよみがえらせた出来事と結びつけて語る。それを見た人々の証しが、群衆の賛美となった。群衆はラザロをよみがえらせた命の主として、死の力に勝つお方として、主イエスを賛美したのである。

このとき群衆は、なつめやし(棕櫚)の枝で主を迎えた。「迎えに出た」は、王を迎える時の表現である。主イエスを迎えることは、主を王として迎え、自分の玉座を主に明け渡すことである。自分を王としていた時、私たちは力や金、神ならぬものに頼っていた。主イエスはそんな私たちを救うために、王として来られた。

しかしこの群衆に複雑な思いを抱く者も多い。彼らは、数日後には主イエスを十字架にかけて殺すからである。このことを主は分かっていた。そのうえで、主は群衆の歓迎をお受けになった。そして主は、ろばの子にお乗りになることで、自分がどのような王であるかを示す。他の福音書と違い、エルサレムに入城し群衆の歓迎を受けた後に、主はろばの子に乗った。彼らにご自分がどのような王であるかを示すためである。

主イエスは馬ではなく、子ろばに乗られた。これはゼカリヤ書9章9節の実現である。主イエスは子ろばに乗った王として、柔和な王、平和な王、捕らわれ人を解き放つ王として来られたのである。

さらに、エルサレム入城はヨハネの黙示録7章9節の「天上の礼拝」へとつながる。主の十字架の救いを受けた大群衆が、なつめやしの枝を持って小羊なる主イエスを礼拝するのである。エルサレム入城時の群衆も、いま主イエスを礼拝する私たちも弱さがある。しかし主は、天上の礼拝に私たちをつなげてくださる。この方を、と賛美し、主を迎えよう。

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