「慰めの中に生きる」(2018/11/25 高橋真之伝道師)
「慰めの中に生きる」イザヤ書43章1節~7節/マタイによる福音書5章4節
高橋 真之伝道師
主イエスは私たちに「悲しむ人々は幸いである」と宣言された。なぜ悲しむ者が幸いなのだろうか。それは、悲しむ人が「慰められる」からだと主は言われる。しかし、この言葉は私たちをつまずかせる。なぜなら、普段私たちが使っている「慰め」という言葉には、せいぜい「悲しむ人に優しい言葉をかけてあげる」程度の意味しかないからだ。
私たちが何よりも乗り越えたいと願っている悲しみは、死が私たちにもたらす悲しみである。果たして、その死の悲しみを前にして、この「慰め」に一体どれだけの力があるのだろうか。
主がここで使われた「悲しむ」という言葉は、ギリシア語では愛する者を喪(うしな)って、狂わんばかりに嘆くときに用いられる言葉である。つまり主が私たちにお与えになる慰めは、私たちの味わう最も深い悲しみである死さえも慰めることができるものなのである。
それでは、主が与えてくださる「慰め」とは何か。ギリシア語では、この「慰め」という言葉は多様な意味を持っている。しかし、最も大切な意味は「傍らに招く」という意味である。つまり、主が私たちを「傍らに招く」ことこそが慰めなのである。
主は私たちを傍らに招いておられる。その招きに応えるとき、私たちは独りぼっちで歩むのではない。その時、私の悲しみはもはや私一人のものではない。主がその悲しみを、ご自身のものとして背負ってくださるからだ。
そして主は、その生涯の最後に私たちの悲しみを背負って十字架の上で死んでくださった。そのことによって、死の悲しみを乗り越える永遠の命の喜びを私たちに与えてくださったのである。私たちは、この永遠の命の喜びに向かって、主とともに歩んでいこう。