「羊の囲いのたとえ」(2018/11/18 熊江秀一牧師)

「羊の囲いのたとえ」詩編23編1節~ヨハネによる福音書10章1節~6節

熊江 秀一牧師

ヨハネによる福音書10章は「良い羊飼い」である主イエスのたとえが記されている。「羊飼いは自分の名を呼んで連れ出す」とは、主のお姿を示す大切な言葉である。主イエスは羊飼いとして私たち一人一人の名を呼んで導いてくださる。

 

今の時代は、人が番号で処理され、名前で呼ばれることの少ない「のっぺらぼう」の社会である。その中でかつての戦時下のように命を軽視する風潮が生まれている。羊飼いである主は、いつも私たち一人一人の名を呼んでおられる。

 

しかし、それは言い換えると、私たちの名を呼ばずに連れ出すものは盗人であり強盗であるということである。このたとえは、目の見えない人の目が開かれファリサイ派の罪が明らかになった9章の流れの中で語られた。ここで主が盗人、強盗として例えておられるのはファリサイ派である。彼らも主に名を呼ばれ、導かれるべき羊であった。しかし「見える」と言い張った彼らは主の声に聞き従わず、羊を滅びへと導く盗人、強盗となってしまった。「彼らはその話が何のことかわからなかった」。自分が主に名を呼んでいただいていることも、自分が盗人、強盗になっていることもわからなかった。

 

それではどうすればよいのか。それは、主の声をしっかり聞いて、この主の声を「知る」ことだと主イエスは告げる。「知る」とは、全人格的に理解すること。幼子が母親の声を知り、聞いて信頼するように、主を全面的に信頼することである。そして目をいやされた人が「主よ、信じます」と告白したように、主イエスの名を告白するのである。

 

主に名を呼んでいただいた者として、主の名を告白し、私たちも互いに名を呼び合って歩もう。