「マリアに告げられた喜び」(2018/12/02 熊江秀一牧師)

「マリアに告げられた喜び」イザヤ書9章1節~6節/ルカによる福音書1章26節~38節

熊江 秀一牧師

主を迎える準備の時、アドベントに入った。神は私たちを救うために命がけの「冒険」をし「到来」された。主の十字架の愛と救いを思いつつ、この時を歩もう。

マリアは大工のヨセフとの婚約を終え、結婚することを待ち望んでいた。どこにでもいる町娘であった。マリアに救い主誕生の知らせが告げられた。このことは救い主が決して特別な人を救うためではなく、すべての人の救いのために来られることを示している。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられる」。マリアに告げられたこの言葉は、私たち一人一人への御言葉でもある。

婚約期間中のマリアが「身ごもって男の子を産む」ことは、姦淫の罪の責任が問われることであった。公にされれば、石打ちの刑で殺されてしまう。さらに、罪に穢れた人の中に神の子を宿すことはあまりに恐ろしい。命を絶たれることであった。「どうして、そのようなことがありえましょうか」。マリアはここで精いっぱいの抵抗をする。御言葉の前に戸惑い、祈る姿は、神から使命を与えられ、たじろぐ私たちの姿でもある。しかしマリアは御言葉と格闘する中で神の御力を示される。聖霊なる神の働きを示され「神にできないことは何ひとつない」と御言葉が与えられ「お言葉通り、この身になりますように」と応える。マリアは自分の力を超えた大きな神の救いの力に包まれていることを確認し、自分の身をすべて委ね、神の子を宿したのである。

聖霊は今や、マリアのみならず私たち一人一人にも主イエスを宿らせる。この物語は私たちの物語でもある。私たち一人一人も、主を宿す者としてマリアの信仰に続き、クリスマスを待ち望もう。