「わたしたちも目を開かれて」(2018/11/11 熊江秀一牧師)

「わたしたちも目を開かれて」イザヤ書43章1節~11節/ヨハネによる福音書9章35節~41節

熊江 秀一牧師

主イエスが生まれつき目の見えない人をいやされた最後の箇所が与えられた。この人はファリサイ派からの尋問の末、追放されてしまう。この人を待っていたのは厳しい迫害だった。しかし主は彼と出会う(直訳では「見つける」)。主はこの人を見つけ出し、救いに導く。

 

同時に主は、この人を追放したファリサイ派の罪を指摘する。「あなたがたは『見える』と言っている。そこにあなたがたの罪がある」と主は言われる。わたしたちは「見える」と言い張るとき、本当に見なければならないことが見えなくなる。わたしたちが本当に見なければならないものは主であり、主が与えてくださった隣人である。わたしたちは主がすぐ近くに来ておられるのに気づかず「見える」と言い張ってしまう。

 

しかし、見えていないことを知るものは神に目を開かれ、見えるべきものを見させていただける。この人は主に目を開かれて、初めて主イエスを見ることになる。肉の目が見えるようになっただけでなく、次第に主が見える者となっていった。この人は「人の子を信じるか」と問われて「主よ、信じます」と告白するに至る。

 

この人を主が見つけ出され、信仰へと導かれたことは深い慰めである。たとえ人々から見放されても、主イエスはわたしたちを求め、探し出してくださる。そしてご自分の十字架によって救いへと導いてくださる。ここにわたしたちの希望がある。

 

「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。裁くとは「分ける」という意味である。主の恵みを受け入れるかどうかで、わたしたちは二つに分かれてしまう。全ての人が心の目を開かれて、主を受け入れることができるよう、宣教に仕えよう。