「主の弟子として生きる」(2018/03/18 熊江秀一牧師)
「主の弟子として生きる」 創世記28章10節~15節/ヨハネによる福音書1章35節~51節
熊江 秀一牧師
主イエスと弟子との出会いは「見よ、神の小羊だ」との洗礼者ヨハネの証しから始まった。この証をヨハネの弟子のアンデレともう1人が聞いた。
2人は主イエスに「どこに泊まっておられるのですか」と問う。「泊まる」には「留まる」「つながる」という意味がある。ゆえに「あなたは何者か」という主イエスの本質を問う言葉である。主は「来なさい。そうすれば分かる」と言われる。彼らはついて行って、見て、主イエスのもとに泊まり、主につながる者となったのである。主の弟子とは「来なさい」という主の招きに応えて主のもとについて行き、主とつながる者である。そして主とつながった弟子は主を証しし、隣人を招く。
アンデレは兄弟シモン・ペトロに「わたしたちはメシアにあった」と証しし、ペトロを主のもとに招く。そしてペトロは主イエスによって「ケファ(岩)と呼ぶ」との宣言を受ける。アンデレは地味な弟子であるが、主は彼をお用いになり、ペトロを弟子とした。
主との出会いはさらに広がる。主はフィリポを招き、その証しによってナタナエルを弟子とする。ナタナエルはナザレのイエスに偏見を持った。しかしフィリポが「来て、見なさい」と主の所にお連れした時、ナタナエルは敬服し、(旧約)聖書を学ぶ彼にとって最高の言葉で読んだ。しかし主はさらに言われる。「あなたはもっと偉大なことを見る」。これは創世記28章のヤコブが見た夢を、現実のこととして見るということである。
主イエスによって天が開き、天と地が結ばれて、天の栄光がこの地上にあらわれた。そしてそれは滅ぶべき者が永遠なる方につながることである。私たち「主の弟子」は、主による偉大な御業を見る。