「イエスの変容と神の栄光」(2018/03/11 西谷祐司神学生)

「イエスの変容と神の栄光」 出エジプト記24章15節~18節/マルコによる福音書9章2節~10節

西谷 祐司神学生

出エジプト記33章で、主は「あなたの栄光をお示しください(18節)」と願うモーセに「わが栄光が通り過ぎる時~(略)~わたしの手であなたを覆う。わたしが手を放すとき、あなたは私の後ろを見るが、わたしの顔は見えない(22~23節)」と告げた。神の栄光とは、神の顔を見ることが許されないように、後になって分かる。そういうもののようだ。

 

ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた主イエスの御姿は、彼らの目の前で白く光り輝き変容させられた。それが「荘厳な栄光の中から『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました」とペトロが「ペトロの手紙(二)1章16~17節」で証言した。イエスが栄光をお受けになられた瞬間だった。しかし弟子たちは山を下りる途中、主イエスから「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられても、復活を理解できなかった。その言葉の真意は「その時が来るまではお前たちには分かるまい。しかし復活が理解できた後、この二つの姿が同じイエスだと分かった時にこそ、大いに今日山の上で見たことを、そして福音を宣べ伝えなさい」ということだった。

 

彼らには、威厳もすべて奪われて辱められ十字架にかかる真の人イエスと、復活の命に白く光り輝く神の子の二つの姿が同じイエスであることを見間違うなとの使命が与えられたのだ。

 

私たちも主イエスの御受難を覚えるレントの期間において、コリントの信徒への手紙(一)6章20節にある「自分の体で神の栄光を表す」信仰生活を考えてみたい。栄光は神に帰すものであって、私たちは、あくまでもその栄光を証しする者なのだ。