「背きを赦す主イエスの愛」(2018/02/04 髙橋真之神学生)

「背きを赦す主イエスの愛」 イザヤ書53章3節~5節/マタイによる福音書26章69節~75節

高橋 真之神学生

今回の聖書の箇所では、ペトロの三度の否認の出来事が描かれています。どうして聖書はこの大失態を語るのでしょうか。それは一言で言うならば、福音のためなのです。福音のためにこそ、聖書はこの失態に関して語るのです。

 

聖書は、一番弟子とあだ名されたペトロが、弟子たちの中で一番、主イエスに従い行こうとした人物であることを私たちに告げます。しかし、そんな彼を待ち受けていたのは、主イエスが数時間前に告げた通り、三度主イエスを否定するという大失態でした。そのことによってペトロと主イエスの間にあったのは、ペトロがどうやっても解決のできない関係の断絶です。従って、この時ペトロは、神との関係の中で生きていくことのできないまことに罪深い者として立たされているのです。

 

そして、このペトロの姿は、真実私たちキリスト者の信仰の姿と言えるのです。私たちは彼のように激しく主を否定することはないかも知れません。しかし、日々の営みの中で、主に従い行くということを、いとも簡単に忘れているのではないでしょうか。つまり、私たちもまた「そんな人は知らない」と言ってしまう罪人のひとりだと言えるのではないでしょうか。

 

しかし、その罪の解決を主イエスはしてくださいました。私たちの罪は、主イエスの十字架によって担われているのです。私たちは、主イエスの十字架に多くのことを発見いたします。そして、それらのことに貫かれていることは、主イエスの愛なのです。私たちの背きを赦す。この赦しの福音のためにこそ、聖書はペトロの大失態を語り継いでいるのです。

 

罪人である私たちもまた、この福音によって、立ち上がり歩んでいくことができるのです。私たちは、この赦しの福音を、堂々と証していくものでありたいと願います。