「キリストの招き」(2018/01/28 熊江秀一牧師)

「キリストの招き」 イザヤ書40章28節~31節/マタイによる福音書11章25節~30節

熊江 秀一牧師

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 

キリストは疲れ、重荷を負う私たちを招いてくださる。そして神のみしか与えることができない「休み」を与え「新しい力を与え」てくださる。私たちの人生はこのキリストの招きに応えて歩む旅である。

 

『天路歴程』の主人公は福音の使者との出会いによって、滅びの街から天の都に向かって旅立った。それはキリストの招きに応える私たちの旅の姿である。

 

キリストの招きの言葉は、人々が悔い改めない罪の現実の中で語られた。主はこの罪の現実の中で神の救いの御業が示されたと歌い、罪人の救いという神の御業は父なる神から子なるキリストに任せられたと賛美する。ここに私たちの希望がある。このお方が私たちを招かれる。重荷とは創世記4章で「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と叫んだ罪の重荷である。そんな私たちをキリストは十字架の愛を持ってご自分のもとへと招く。ここでキリストは「わたしの軛(くびき)を負う」ように告げる。2頭の牛が共に軛を負って荷物を運ぶように、キリストと「軛仲間」となることである。その時、私たちの重荷すべてがキリストによって担われる「喜ばしい交換」が起こる。主が私の重荷を、私の存在そのものを担ってくださる。

 

かつてドイツに荷物の入った籠や袋を背負ったまま乗ることができる専用車両があった。彼らは荷物を背負いつつ、安全な座席を与えられ、安心して目的地まで行くことができた。

 

キリストの軛を負って旅する私たちは、この専用列車に乗って旅をするようなものである。教会という「天の都」行きの専用列車で、共に旅をしよう。