「信仰の順序」(2018/01/21 小林眞牧師)
「信仰の順序」 イザヤ書35章1節~10節/マルコによる福音書7章31節~37節
小林 眞牧師(岩槻教会)
いま礼拝に集められている方々も、初めて教会に行った時が必ずあり、その理由を考えると、自分の「状況の変化」を求めて教会の門を叩いたと考えられます。
主イエスが来られた時、人々が耳と口に二重の障害を担っていた人を連れて来て、以前なされた奇跡を思い「手を置いてほしい」と願いました。すると主イエスは、群衆の中から「この人だけ」を連れ出されましたが、信仰の出発とは、自分が神の前に一人で立って決断することを表します。
主イエスが、ご自分の前に立つ者に、指を両耳に差し入れ、舌に触れて「エッファタ…聞けよ!」とおっしゃいますと、この人の二つの障害が解け、耳が聞け、正しく話すことができるようになったという明確な奇跡が起きたのです。この奇跡を起こされて癒やされた部位を見てください。耳が癒される。それは音声が聞こえるのではなく、神の言葉が聞こえるようにされたこと、次いで口が癒やされたことは、この奇跡を起こされた主への感謝と賛美の言葉を出せるようになったという出来事だと理解するのが正しいと思います。
私たちの大半は、健常者と呼ばれる者ですが、本来、与えられた器官をどのように用いているでしょうか。自己主張と、自分のためだけに器官を用いているなら、それは(身も心も)自己中心の歩みとなり、神さまから見れば、障害に、すなわち「罪」と判断されることではないでしょうか。
神さまの前に立ち、神さまの御言葉を聞き、感謝・賛美することが聖書の語る本来の人間であり、神さまとの「関係の変化」、つまり(全人的な回復:救い)を、この箇所は語るのです。