「主の日の到来」(2018/01/14 熊江秀一牧師)

「主の日の到来」 マラキ書3章19節~20節/テサロニケの信徒への手紙(一)5章1節~11節

熊江 秀一牧師

主の日、主の再臨がいつか、人類は知ることを求めてきた。しかしパウロは主の言葉を通して、その時は知る必要のないこととして教えられていると告げる。むしろ知るべきは主の日は「盗人」のように「突然」来て、「妊婦の産みの苦しみ」のように「逃れられない」ことだと言う。

 

そしてパウロはその日をどう迎え、どう向かって生きるのかを告げる。

 

パウロは主の光の中にある「光の子、昼の子」である信徒たちは恐れる必要はないと言う。「主の日」の「日」は、英語ではDAY(「昼の子」の「昼」と同じ)。昼の子、光の子にとって、その日は夜明けの時として待ち望む時である。

 

だからパウロは「目を覚ましていなさい」と告げる。そして「信仰と愛の胸当て」「救いの希望の兜」を身につけるように告げる。これは防御用の武具である。これを着けて、悪魔の攻撃から身を守り、主の日に向かって歩むのである。

 

しかしそれでも不安を持つ者もいた。そんな信徒たちにパウロは改めて神の救いの御計画を宣言する。「神は私たちを怒りに定められたのではなく、主イエスによる救いにあずからせるように定められた」。「定め」は計画を意味するとともに、神の法廷で無罪と定められたことを意味する。それは主イエスが「私たちのために死なれた」ことによる。そして今や私たちは「目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるように」されている。だから私たちは安心して目を覚ましていられる。だから安心して眠りにつくことができる。

 

私たちも励まし合い、お互いの向上(原意は「家を建てる」)を心がけ、「義の太陽」キリストの再び来られる日を待ち望みつつ、昼の子、光の子の群れとして歩もう。

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