礼拝説教要約「弁護者キリスト」(2022/10/2)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所

ヨハネの手紙一 2章1~6節  詩編 121章1~8節

■説教要約

 ヨハネの手紙一は2章で、この手紙を書いた目的を語る。
それは「罪を犯さないようになるため」である。

 異端の輩は「自分には罪はない」と主張した。しかしこの手紙は、神の光に照らされて、自分の罪を明らかにしていただき、罪を公に言い表すことを命じる。そんな私たち罪人のために「弁護者」キリストが執り成して下さる。

 この「弁護者」(パラクレートス)は「助け主」(口語訳)とも訳せる。キリストは神と私たちの間に立って弁護し、助けて下さる。
その姿は驚きである。私たちの罪の代償をご自分が支払って、十字架によって私たちに無罪を与えて下さった。キリストは「わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」となられた。

しかし異端の輩はこの教えを歪めた。キリストが最後の晩餐の席で「別の弁護者を送る」と約束された聖霊を弁護者として強調し、神と一体化することを熱狂的に求めた。そして弁護者キリストの十字架の執り成しを軽んじた。

しかしこの手紙はその教えの誤りを正す。そして私たちが本当に見るべき弁護者キリストの姿を示す。
この手紙と異端の輩の「神を知っている」生き方には大きな違いがある。それは「神の掟に生きる」かどうかである。
「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」という「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かる」とこの手紙は告げる。

 一方、異端の教えには、掟は存在しない。霊的に神と一体化した彼らには、掟は必要ないのである。
神の愛の掟を無視する姿は、カルト宗教も同様である。

 教会は、神の愛の掟に生きる群れである。弁護者キリストの十字架の執り成しの中、自分の罪を認め、互いに愛し合う、愛の掟に生きる群れとして共に歩もう。

  

 

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