礼拝説教要約「主イエスの権威」(2023/7/30)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 1章21~28節 ホセア書 6章1~3節
■説教要約
主イエスは安息日にカファルナウムの会堂で説教をした。この礼拝は主の弟子となったペトロたちにとって、特別な礼拝となった。そればかりは会衆にとってもそれまでとは全く違う礼拝であった。主が「権威ある者としてお教えになった」からである。律法学者は学者の権威で語ったのに対して、主は聖書を人に与えた神の子の権威で語った。「人々はその教えに非常に驚いた」。マルコ福音書が書かれた対象であるギリシャ・ローマ世界の異邦人とって「驚く」ことは、真理探究のスタートである。この主の説教への驚きは、イエスは何者なのかという問いとなる。
しかもこの礼拝では、教えのみならず、主の御業によってその権威が示された。それは汚れた霊に取りつかれた男のいやしである。悪霊は人を神から引き離す。その力は今も猛威を奮っている。 この時、男は礼拝に来ていた。悪霊に取りつかれても、この男の神を求める心は消えていなかった。人間はアンソローポス(上を見上げる存在)なのである。主イエスは悪霊に対して「黙れ。この人から出て行け」と命じ、この男をいやす。
人々はこの主の御業を通して、再び「驚き」「権威ある新しい教えだ」と告白する。主の教えと共にこの御業によって人々は主の権威を知らされる。22節の「驚く」と27節の「驚く」とは違う。22節が「びっくりする」であるのに対して、27節は「畏れ驚く」である。主の教えと御業に出会った人々は驚きから、畏れを抱き、イエスは神の子であるという信仰告白的へとなっていく。
このカファルナウムの礼拝によって、礼拝は主の権威にあふれる新しい礼拝となった。この礼拝のただ中に主はご臨在される。主の御言葉と御業に驚き、畏れ、癒されて、主をほめたたえよう。