礼拝説教要約「主イエスのいやし」(2023/8/6)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所
  
  マルコによる福音書 1章29~39節   サムエル記下 23章2~5節

■説教要約

 カファルナウムでの安息日の礼拝の後、主イエスはペトロたちの家に行った。すべてを捨てて主に従った彼らの家に、主自らが訪問された。

  この時、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝ていた。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると熱は去り、彼女は一同をもてなした」。このいやしは聖書の中で最も小さい。しかしペトロの家族の救いとなった。「もてなした」は、彼女がこの後もずっと主イエスに仕え続けたことを意味する。またペトロの妻も信者となった。この時、主イエスがペトロの家を訪れ、小さないやしをした時から、この家の救いが始まった。

  私たちは二つのことを思わされる。主のいやしは病気が治ることを越えて、主の救いに入れられてゆくことである。

  もう一つは主の弟子となるとはどういうことかである。すべてを捨てて主に従う時、主はその家に来られ、その家で救いを始められる。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。やがて日も沈み、安息日が終わるや、人々は主の元へ、病人等を皆連れて来た。主はすべての人の病をいやし、悪霊を追い出した。この主の愛と力の源は何か。それは祈りである。

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」。「祈っておられた」は繰り返し、今も祈り続けていることを意味する。主は祈りの人であった。私たちは主に祈られている。   その場にも様々な思惑と共に主を追いかけてくる。そんなペトロたちに「近くの他の町や村に行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来た」と言う。主は神の救いを実現するために、神の元から「出て来た」。私たちも主の弟子として宣教に遣わされよう。


 


 



 



  



 

  

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です