礼拝説教要約「わたしについて来なさい」(2023/7/23)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所
  
  マルコによる福音書 1章16~20節   エレミヤ書 16章16~21節

■説教要約

「わたしについてきなさい」。主イエスは、ガリラヤの漁師シモン・ペトロとアンデレ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネを招き、主の弟子とした。この召しの主役は主イエスである。

 その中でまず示されるのは、彼らを「ご覧になった」主のまなざしである。主は彼らの奥深くまで、良いところも、弱さも、罪の現実も、すべてご覧になった。しかもこの主のまなざしは愛と憐れみに満ちていた。主は私たち一人一人にもこのまなざしを向けておられる。主は私たちの奥深くに目を向け、ご覧になり、愛のまなざしで包んで下さる。

 そして主はペトロたちを招く。マルコでは招きに先立っての大漁の奇跡はない。マルコは主の弟子の招きが、ただ主の御言葉によって起こったことを示す。御言葉こそが弟子を生みだす。それは御言葉による新しい創世記である。無から有を造り出す神の言葉をいただく時、私たちにも光が輝き出す。そして主の弟子として新たに創造される。

 この時、主が言われた「人間を取る漁師」は人を神の救いにすなどる者である。旧約聖書にも神の漁師という表現がある。それは民の罪と悪を暴き出し、神の裁きを示しつつ、救いへとすなどる者である。

「人間を取る漁師」にも、同じ意味が込められる。まず主ご自身が、救いに導く漁師になって下さった。この主に召された弟子たちは罪人を神の救いへすなどる「人間をとる漁師」となる。   ペトロたちは「すぐに、網を捨てて、従った」。これは理屈を超えた、主の愛のまなざしと召しに対する応答である。彼らは漁師としての能力や誇りを捨てて、主に従った。彼らは弱さを持ちつつ、主の愛と召しの中で最後まで弟子として歩んだ。 私たちも主の召しに応え、主の弟子として歩もう。


 


 



 



  



 

  

 

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