礼拝説教要約「主の十字架による救い」(2023/4/2)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師 

■聖書箇所

ヨハネによる福音書 19章28~30節  ゼカリヤ書 9章9~12節

■説教要約

主イエスは十字架の上で「渇く」と言われた。
これによって「聖書の言葉が実現した」(詩編22:16)。この箇所の「実現した」は他とは違い「成就した」とも訳せる。主の十字架は、聖書の成就であり、神の言葉の完成である。

「渇く」は私たちと世界の現実である。神はすべて与えて下さっているのに、私たちは罪ゆえに渇いている。神の恵みを見失い、その恵みを分かち合うことを忘れて、飢え渇き、滅びに向かっている。「日本は御言葉の飢饉である」(マザーテレサ)。

その渇きを主が十字架で経験された。この時、人々は主に酸いぶどう酒を飲ませた。これも御言葉の実現である(詩編69:22)。この時用いられたヒソプは出エジプトの時、犠牲の小羊の血を塗り、神の災いを過ぎ越す時に用いられた。この記念の過越祭の準備の日、犠牲の小羊が屠られる時刻に、ヒソプを用いて赤いぶどう酒が十字架の主に向けられた。それは主が世の罪を取り除く神の小羊であることを指し示す。

主は十字架で最後に「成し遂げられた」と言われた。口語訳聖書の「すべてが終わった」から踏み込み、原語に近い言葉となった。ある人は「すべて良かった」と天地創造の神の言葉と重ねて訳す。主は死に際し、神の救いの計画が完成し、すべて良かったと宣言された。

さらにそれは神の栄光(17:4)と勝利の凱旋をも意味する。「頭を垂れて息を引き取られた」はすべてをなし終え、枕に身を横たえる姿である。
「息を引き取られた」は、霊を引き渡して、父なる神の元へ凱旋した姿である。神の救いの計画を成し遂げられた主はすべてを父なる神に委ねて、栄光のうちに勝利の凱旋をした。

主が十字架で死なれた日はグット・フライデイ。救いを完成した主を賛美しよう。


 





  



 

  

 

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