希望に生きる信仰(2021/3/7) 熊江秀一牧師

「希望に生きる信仰」

詩編62章6~9節/ローマの信徒への手紙4章17b~25節

熊江秀一牧師


アブラハムの3つの信仰の姿を通して信仰義認の恵みを心に留めてきた。それらに共通するものがある。それは希望である。

アブラハム夫妻には子どもがおらず、すでに100歳と90歳になっていた。それは絶望的な現実であった。

 しかしその人間的絶望のただ中でアブラハムの信仰は弱まりはしなかった。むしろ信仰によって強められ、神を賛美した。

それは神が「死者に命を与え、存在していないものを存在させる神」であると信じ「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していた」からである。「確信」は「満たされていっぱい」という意味を持つ。彼は目に見えない恵みに満たされて、希望と喜びでいっぱいであった。 一般的に希望と絶望は正反対と言われる。しかし希望の信仰とは絶望のただ中においても持つことができる。望みなき現実で希望があふれ、勇気がわいてくるのである。このアブラハムの信仰に私たちも続きたい。

このアブラハムの希望の信仰の源とは何か。それは礼拝である。彼は旅の先々で礼拝をささげた。礼拝こそ希望の信仰の源である。

そしてパウロは言う。「それが彼の義と認められた」という言葉はアブラハムのみならず「私たちのためにも記されている」。それは今やキリストを信じる信仰として私たちにも与えられている。希望も今やキリストによって私たちに与えられている。

パウロはこのアブラハムの信仰に、復活を信じる信仰の原型を見ている。彼の無から有を造り出す神への信仰は、キリストの十字架と復活によって、滅ぶべき罪人を、永遠の命に生きる神の子として新たに生まれさせる神への希望の信仰として私たちに実現したのである。この希望に生きる信仰の道を歩もう。

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