「愛は決して滅びない」(2018/02/18 秋山徹牧師)
「愛は決して滅びない」 エレミヤ書17章5節~8節/コリントの信徒への手紙(一)12章31節b~13章13節
秋山 徹牧師(上尾合同教会牧師)
コリントの信徒への手紙(一)は「愛の讃歌」と言われ、多くの人が愛好する聖句の一つです。この「愛の讃歌」は三つの部分に分かれます。最初の部分では、異言を語るにしても、預言も、信仰も、あらゆる礼拝行為も献身的な信仰生活も、その根底に愛がなければむなしいと語られます。このことを語るときパウロは「わたし」を主語として語っています。他人事ではなく、わたしの行動、わたしの心のあり方が問われているのです。山を移すほどの信仰や全財産を貧しい人のために使い尽くすほどの献身、そこでも、愛なしの信仰、愛なしの献身がありうると示されます。
次に、愛がどのような姿で表されるかを語る時、今度は「愛」を主語に15の言葉が列挙されています。すべてが動詞で表されているのです。愛は感情や気持ちの問題というより行動であること、手と足を動かし、心と体の行動を通して表されるものであることが明らかにされます。ここに挙げられている15の愛の行動のうち7つは肯定形、8つは、ねたまない、自慢しない、など否定表現です。愛の実態について語ろうとすれば肯定形よりも否定形で語るほうが多いのです。わたしたちは、愛の欠如した姿で、真実の愛を思い、愛を慕う現実が示され、考えさせられます。
第3の部分は、「愛は決して滅びない」という言葉に続いて、「わたしたちは、今は、鏡に映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときははっきり知られているようにはっきり知ることになる」と。「そのときは…」というのは、キリストの再臨の時、最後の審判の時であるのは明らかです。そのときに「わたしがはっきり知られているように、はっきり知るようになる」とはどういうことなのでしょう。主なる神がわたしたちを知る知り方は、主キリスト・イエスを通してであって、それ以外ではないことをはっきりと知らなければなりません。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤの信徒への手紙4章17節)と記されています。
わたしたちのこの世での信仰も生活も、まことにおぼろげで不確かです。しかし主なる神はわたしたちの罪にまみれた姿ではなく、キリストを着たわたしたちを見ておられます。そしてわたしたちも、そのときには恵みの下できよくされたわたしたちの歩みが何であったかをはっきり知るようになるのです。ここに愛があり、希望があり、慰めがあり、わたしたちの地上の生は何に向かって生きていくのかを確認させられます。