「神の作品」(2018/02/25 熊江秀一牧師)

「神の作品」 創世記1章26節~28節/エフェソの信徒への手紙2章4節~10節

熊江 秀一牧師

「わたしたちは神に造られたものである」は、口語訳では「神の作品」である。私たちは決して大量生産で造られた「製品」ではなく、神がご自分の全精力を傾け、愛を込めて造られた「神の作品」なのだ。しかし私たちは欠けを持っている。それは神が失敗したということではなく、欠けが私たちに必要なことをご存知だからである。

 

欠けだらけで生まれた赤ちゃんは親の手の中で育てられ、信頼する恵みを実感していく。そして愛し合い、助け合い、ともに行きていくことを養っていく。それは生きる上での宝となる。欠けは、神様の深いご計画である。欠けある人間が「神の作品」として「極めて良い」と言われたことは意味がある。さらに私たち人間に欠けがあることにはもう一つ、むしろ前者にまさる大きな意味がある。それは欠けゆえにキリストの恵みを受ける者として造られたことである。

 

「神に造られた」私たちは「キリスト・イエスにおいて造られた」とも告げられる。人はともに生きる者であるが、それだけでは埋めきれない悩みもある。聖書は究極の問題として罪・原罪のことを告げる。この罪の問題を解決してくださるのはキリストである。

 

「神によって造られた」は肉による誕生であるのに対し「キリストにおいて造られた」は第二の誕生。罪と死の現実にあった私たちがキリストの十字架の恵みによって、新しい者として誕生したことである。これは私たちにとって洗礼を受けてキリスト者となることだ。私たち教会に連なる者はキリストの命を受けて新しく生まれた者である。この神の救いの恵みを、人々に届けるよい業のために私たちはキリストにおいて造られた。この「神の作品」としての恵みの中を、ともに歩もう。