主に結ばれて我らは一つ(2021/9/19)熊江秀一牧師

■聖書箇所:
ローマの信徒への手紙12章3~8節
ゼファニヤ章3章9~13節

■説教要約:
私たちは「キリストに結ばれて一つの体を形作り」、それぞれはキリストの体の「部分である」とパウロは語る。「体」は多くの部分から成り、一つの体を形作る。その部分に優劣をつけるとしたら愚かである。パウロの時代、異言を語る人が、優越感をいだき、他の人々を裁いていた。同じことは働きや捧げ物等でも起こりうる。教会は聖餐を受けつつ、キリストと結ばれ、一つの体として歩む群れである。
その時、大切なのは賜物を互いに活かしあうことである。賜物(カリスマ)は恵み(カリス)から生まれた。それまでは異言のみが霊の賜物(カリスマ)であった。しかしパウロは一人一人に様々な霊の賜物(カリスマ)が与えられていると宣言した。大切なのはそれを活かし合うことである。
そのためにパウロは「自分を過大に評価」するのではなく「信仰の度合いに応じて」(信仰をメーターとして)「慎み深く」あるように勧める。車を運転する時、スピードメーターを常に確認するように。
アウグスチィヌスは著書「三位一体論」を執筆する時、幼子が貝殻で、海の水を全部すくおうとしている夢を見た。「何とバカな」と見ていると、幼子はキリストとなり「お前は三位一体について、貝殻のような頭脳で書こうとしている」と告げた。それ以来、彼は謙遜に、信仰と祈りを持って執筆に取り組んだ。
キリストは幼子として生まれ、十字架の道を歩んだ。それはとてつもなく大きな人間の罪を、貝殻で海の水をすくい出すような歩みであった。キリストは愛によってそれを成し遂げた。
私たちはキリストの愛によって、一つの体とされた。謙遜に霊の賜物を互いに活かし合い、生けるキリストの体として、御業に仕えよう。

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