永遠の命とは(2020/03/15 熊江秀一牧師)*説教音声あり

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「永遠の命とは」哀歌3章22節~27節/ヨハネによる福音書17章1節~5節

熊江 秀一牧師

主は決別説教の後、まなざしを天に向け祈り始めた。この祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれる。

主は「父よ、時が来ました」と祈り始めた。「時」は十字架の時である。

十字架は人が神の子を殺すという罪の極みの出来事である。主は十字架の出来事を「栄光」と言い換えた。「十字架」と「栄光」は相対する主の両極の姿ではない。主の栄光とは、十字架の栄光である。人の罪の極みである十字架を通して、主は栄光を現される。

しかも主の栄光は、世界が造られる前からすでにあった。世界は主の十字架の栄光の中で造られ、統べ治められる。そして主は私たちに「永遠の命」を与えることができる。

「永遠の命」とは何か。それは「時間」よりも「質」を意味する。遠いことではなく、永遠をいま生きるのである。私たちには天に召された先達がいる。彼らは死んでから永遠の命に入ったのではない。生きていた時、すでに永遠の命に生きていた。そしてその命は、死によっても途切れることはない。私たちも同様である。私たちも今、すでに永遠の命の中にある。

さらに主は「永遠の命」の秘密を明らかにする。「まことの神」と「イエス・キリスト」を「知ること」に永遠の命があるという。「知る」とは知識ではなく経験すること、ひとつになることである。

神を知ることを人類は求めてきた。しかし罪ゆえにできなかった。そんな私たちに神は、主イエスをくださった。私たちは主を知ることによって神を知る。主の十字架によって主と一つになり、いま、永遠の命に生きる者としていただいた。

教会とは「永遠の命」の恵みに生きる群れである。レントの主日に、十字架の栄光を現して、永遠の命を与えてくださった主をほめたたえよう。

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