一粒の麦(2019/06/30 熊江秀一牧師)
「一粒の麦」イザヤ書53章1節~5節/ヨハネによる福音書12章20節~26節
熊江 秀一牧師
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ・・・」。この御言葉はよく知られる反面、その真意から離れて引用されることも多い。この言葉は主イエスの十字架を証しする言葉として、主自らが語られた。
この御言葉は、エルサレム入城直後に、過越祭に来ていたギリシャ人に語られた。彼らはラザロを復活させた命の主、王である主イエスに会うことを求めた。主は彼らに御言葉を与えた。それがこの御言葉である。一粒の麦が地に落ちて死ぬように、主イエスは十字架にかけて殺される。しかし地に落ちた一粒の麦によって多くの実を結ぶように、主の死によってたくさんの人が命と救いの実を結ぶことになる。ともにその命の実を受けよう。ここに教会が語るべき言葉がある。 過越祭に異邦人が来ていたように神の過越、命の実にすべての人が招かれている。教会はこの福音を大胆に語るのである。
さらに主は、御言葉を与える。「自分の命を愛する者」は自分に執着する者、自分を王とする者。その者はかえって「それを失う」。むしろ「自分の命を憎む人は、それは保って永遠の命に至る」。自分の罪を自覚し、悔い改めて一粒の麦である主イエスの死と命に生きる時、永遠の命に至るのである。私たちは自分自身の中で政権交代して、自分を王とする生き方から、私たちのために死んでくださった主を、王として迎えるのである。
そしてこの時、主イエスは宣言します。主イエスが栄光を受ける時の始まりです。主イエスの栄光は、この世の栄光とは全く違います。主イエスが一粒の麦として地に落ちることによって与えられる栄光、十字架の栄光です。それによってユダヤ人も異邦人も命の実を結びます。十字架の主の栄光を、ともにほめたたえよう。