「キリストの十字架」(2019/04/14 熊江秀一牧師)

「キリストの十字架」詩篇22篇1節~6節/マルコによる福音書15章33節~41節

熊江 秀一牧師

棕櫚の主日に、主の十字架の死の場面が与えられた。それは「全地は暗くなり」罪の闇が世界を覆う出来事だった。しかし神は、この闇のただ中で救いの光を輝かせてくださった。それは主イエスの命による神と人との和解であった。

この時、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。これは詩編22編2節の言葉である。ここで主は、十字架の苦難のどん底にありながら、父なる神を信頼し「わが神」と呼んだ。しかしこの叫びは同時に、私たち人間の罪の深さに対する叫びでもあった。主は人間の罪をあがなうために、神に見捨てられなければならなかった。これは、本来ならば罪人の私たちが受けるべき事である。その呪いを、主が代わって受けてくださった。

私たちはイザヤ書53章のように「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」罪人であった。その罪の極みが、神の子を十字架にかけて殺すことであった。

しかし主は、罪人の私たちを拒絶するのではなく、受け入れてくださった。苦しみのただ中で、主は私たちを愛し、抱きしめてくださった。「彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」。それはすべて、神のご計画だった。

主が息を引き取ったとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。その時、神と人との間をさえぎる隔てが取り除かれた。さらにその時、人と人との隔ての壁が壊された(エフェソ2章14節)。主の十字架によって神と和解し、隣人とともに生きる道が開かれたのである。

その時、百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と告白した。私たちも百人隊長とともに十字架の主に対して「本当にこの方は神の子」と告白しつつ、受難週を歩み、イースターを迎えよう。

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