「悲しみと嘆きの中で」(2018/06/24 髙橋真之伝道師)
「悲しみと嘆きの中で」 エレミヤ書31章15節~17節/マタイによる福音書2章13節~23節
高橋 真之伝道師
クリスマスにはイエス様の誕生という大きな喜びが満ちあふれている。しかし聖書はクリスマスに深い悲しみと嘆きがあったことを告げている。それは、イエス様があるところに、人間の罪が明らかにされるからである。そして、ここで明らかにされた罪とは、ヘロデ王の罪であった。彼の罪が、ユダヤの地に悲しみをもたらしたのである。
ヘロデ王は、ユダヤ人の「まことの王」としてお生まれになったイエス様を恐れ、殺そうと企んだ。そのためには2歳以下の赤子を虐殺することさえしたのだ。まさにヘロデ王の罪とは、イエス様を受け入れずに自分を中心として生きることであった。この罪がこの地に悲しみをもたらしたのである。
しかしどうして聖書は、クリスマスの喜びとともに、この悲しみの出来事を語っているのだろうか。それは、ここに福音があるからである。この悲しみの中にも、私たちの救いがあるからである。
エレミヤ書16~17章は、罪によって悲しみの中にある母親たちの涙がぬぐわれることを告げている。つまり、悲しみは悲しみでは終わらないのである。悲惨な出来事の中にあっても、未来には希望があることを私たちは聖書から告げられている。そして、その希望を造りだすのがイエス様なのである。神様がなぜ子どもを守られなかったのかは、私たちにはわからない。しかし、ただ一つ確かなことは、イエス様は、自らの十字架の死によって、私たちに永遠の命という未来の希望を造りだすということである。
私たち一人ひとりの命は、イエス様の名において救いの悲しみの中に入れられている。クリスマスの出来事は、悲しみと嘆きの出来事を通して、私たちにそのことを告げているのである。