「主イエスとサマリアの女」(2018/05/06 熊江秀一牧師)

「主イエスとサマリアの女」 イザヤ書55章1節~3節/ヨハネによる福音書4章1節~26節

熊江 秀一牧師

主イエスは一人のサマリアの女と出会い「水を飲ませてください」と声をかけた。この女は驚く。ユダヤ人とサマリア人の対立の歴史が、そこにあったからである。しかも正午ごろに水を汲<ruby>く</ruby>みに来ていた女は「村八分」にされていた。主はすべてをご存知の上で声をかけた。そして主は、この女を救いへ導いていく。

 

対話を重ねるうちに、井戸の水から永遠の命に至る水の話へと展開していく。女は「生きた水」をヤコブの井戸にまさる、こんこんと湧き出る泉と思った。そんな女に主イエスは、私たちの内にあふれ出る永遠の命に至る水を与えると告げた。ここから女の魂の渇きが明らかにされていく。

 

ただ主のみが、この女の渇きに目を向け、命の水を注がれる。そして女に変化が生じる。現実の問題から彼女の信仰の問題へ、彼女の最も深い心の渇きがあらわにされていく。それは「サマリア人が捧げているゲリジム山での礼拝とユダヤ人のエルサレムでの礼拝は、どちらが正しいのか」ということである。主は答える。「この山でもエルサレムでもない所で、…霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。主イエスを通じて神を礼拝する、新しい時代の到来である。場所は関係なく、主イエスにつながる礼拝は真実の礼拝なのである。

 

最後に主イエスは「わたしである」と告げる。旧約の神の名を告げ「生きた水」を与えるのはわたしであると女に宣言された。主イエスと出会ったこの女は、水がめを置いて、街に行き主を証しした。そしてこの女の伝道で、人々は主のもとに行き、主を信じた。

 

私たちも「生きた水」をいただき、この女のように水がめを置いて、主を証しする人生を歩もう。