「人の心を知っておられる主」(2018/04/15 熊江秀一牧師)

「人の心を知っておられる主」 詩篇69章6節~19節/ヨハネによる福音書2章13節~25節

熊江 秀一牧師

過越祭が近づきエルサレムの神殿に入られた主は怒りを表された。それは神殿で高い手数料を取って商売や両替をする者をこらしめるためか。それが主の怒りだと読むならば、怒りの意味を十分に理解していない。ここで主は私たちの祈りと礼拝の姿を、神の前に生きる姿を問うている。

 

「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカによる福音書18章9節)で、自分の正しさを祈ったファリサイ派の祈りは、当時ユダヤ社会の中で理想的と思われていた。しかし主は徴税人の「神様、罪人の私をあわれんでください」との祈りが神の前に正しいと告げた。聖書の教える罪は自己中心である。ある牧師はこれを「人生を私する罪」と言った。自分の人生を自分のものとすることは当然とも思える。しかしそこに罪があるという。神が命を与え、生かしてくださっていることを忘れて、それを自分のものだと思い上がる。さらに喜びを手に入れるために、神さえも利用してしまう。主は「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」。だから主イエスは怒りを表されたのである。

 

しかし主イエスは、その怒りを私たちに向けられたのではなく、自らが神の怒りを受けることで、私たちを救ってくださった。

 

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。ここには主の十字架と復活が暗示されている。主は自らが犠牲となり、しかも三日目に復活され、御自分を生ける神殿として建て直してくださった。ここに私たちの救いがある。この時、主の言葉の意味が分からなかった弟子たちは、主の十字架と復活を通じて聖書と主の言葉を信じた。私たちもこの主の御言葉を悟らせていただき、主を心から礼拝しよう。