礼拝説教要約「故郷での主イエス」(2024/2/11)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(新共同訳)
  
  マルコによる福音書 6章1節~6a節   詩編 69章8節~16節

■説教要約

故郷ナザレでの主の物語である。

安息日、主は会堂で説教を語った。それは人々に神の知恵と力を示し、驚きを与えた。しかし人々は主を信じなかった。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と「イエスにつまずいた」。この言葉はイエスのことを知る貴重な言葉である。イエスは大工で、7人以上の兄弟の長男であることが分かる。しかしこの言葉には「マリアの息子」との呼び方のように、イエスが父親の分からない子という偏見と悪口が込められている。

 イエスは「人々の不信仰に驚かれた」。彼らの不信仰はイエスのことを知り、説教に驚き、神の知恵と力を認めたところに起こった。それは私たちにも起こり得る。

 マルコではこの物語を、ヤイロと長血の女の信仰の物語と並べた。信仰とは主を信じて自分自身をさらけ出すことである。十字架の主に対する信仰である。

 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。主は当時よく知られた言葉で故郷での姿を語った。この言葉には主のご受難も暗示される。主はご自分の民のところに来たのに、民から受け入れられず(ヨハネ1:11)十字架に向かうのである。  主は人々の不信仰ゆえに「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。信仰がないところでは主は奇跡や救いをできないとマルコは語る。主は不信仰な私たちが心の扉を開くことを待っておられる。そして主はそんな私たちのために十字架にかかられ、救いの道を備えて、招いておられる。 主の招きに応え、主を信じ、十字架の主に従って歩もう。



 



 



  



 

  

 

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