礼拝説教要約「主イエスはまことのぶどうの木」(2023/6/11)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所

ヨハネによる福音 15章1~5節  イザヤ書 5章1~7節

■説教要約

主イエスはご自分と私たちをぶどうの木とその枝としてたとえられた。そしてぶどうの木であるわたしにつながることで実を結ぶと宣言する。

しかし私たちは主とつながることを願いつつも、よい実を結ぶことには自信がなくなる。また「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」との御言葉に恐れを感じてしまう。

ここで主は枝には「実を結ばない枝」「実を結ぶ枝」「いよいよ豊かに実を結ぶ枝」があると告げる。これは私たちを分類する言葉ではない。主とつながる者が実を結び、さらに豊かに実を結ぶための神のご計画の言葉である。

第一段階。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」は「切り捨てられる」と誤解されがちである。しかしこの意味は「取り上げる」とか「持ち上げる」である。これは枝を切り捨てるどころか、実を結ばない枝に農夫が目を留め、枝を持ち上げ、洗って、ぶどう棚に結び付けている姿である。またこの言葉は十字架の箇所にも用いられる。この言葉は主とつながりつつも実を結ばない現実にある私たちを神が愛を込めて持ち上げ、主の十字架によって洗い清め、教会というぶどう棚に結び付け、実を結ぶ者とする神のご計画が込められる。

第二の段階。神は実をみのらせ始めた枝を「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。この手入れとは刈り込みである。刈り込みをしないと沢山の葉っぱが茂り、立派に見えても、実りは少ない。神は私たちが信仰生活を送る中で、刈り込みをなさる。それは痛みも伴う。しかしそれは熟練した農夫のような手入れである。それによって大きな実りの祝福を受ける。

 まことのぶどうの木である主につながり、大宮教会という神のぶどう棚で共に実をみのらせ歩もう。


 



 



  



 

  

 

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