礼拝説教要約「主イエスの秘密」(2023/8/20)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所
  
  マルコによる福音書 1章40~45節   レビ記 14章1~20節

■説教要約

主は「人里離れた所」で、重い皮膚病の人と出会った。汚れた者とみなされ、隔離されていた彼は、主の姿を見て近づいてきた。これは律法で禁止されていたが、必死の思いで「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。この言葉は「あなたはできる」が強調されている。彼は主の御力を確信し、救いを必死に祈り求めた。主イエスはそれに応えられた。「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ『よろしい清くなれ』と言われた」。主は彼を「深く憐れんで」(原意「内臓が痛む」)そうされた。聖書には、この「憐れみ」を「怒って」と訳しているものがある。対照的なこの二つが、この時の主を理解するには必要である。主はこの人を深く憐れむと同時に、彼を人として扱わないこの世の罪の現実に対して怒られた。

 その怒りはいやしの後にも込められる。主は厳しい口調で、このことを人々に伝えることを禁じた。彼の人格を奪う世は、主に対してでさえ、奇跡等を強調し、ゆがめた姿で理解する危険性があるからである。

しかしこの時、主は彼に祭司に伝えることを命じた。彼が社会復帰するためである。主は、彼に町に帰って神の民として生きるように命じるのである。

 しかし彼は人々に「告げ」言い広めた。「告げ」は「宣教し」(39節)と同じ言葉である。彼は最初の宣教者となったと言える。しかし警告も込められる。主の十字架と復活なしに、奇跡や御業が語られる時、宣教は誤った方向に行き、カルトにもなる。私たちは教会が告白し続けてきた信仰告白に立ち、神の宣教に仕えることが大切である。

しかも今、この救いを秘密にする必要はなくなった。主は宣教することを命じておられる。福音を大胆に、喜んで宣べ伝えよう。


 


 



 



  



 

  

 

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