礼拝説教要約「十字架による救い」(2022/4/10)熊江秀一牧師
■聖書個所:
ゼカリヤ書9:9~10/ルカによる福音書23:44~49
■説教要約
棕櫚の主日に、主の十字架の死の場面が与えられた。
「昼の十二時ごろ」に「全地が暗く」なるのは、主イエスを十字架につけることが、世界を罪の闇に包む出来事だったということである。しかし神はそのただ中に、救いの光を輝かせ、平和の道を備えた。それが主の十字架によるとりなしである。
主は十字架の上で「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と叫び「息を引き取られた」。これは主がご自分の全てを父なる神に委ねたということである。
この祈りは詩編31編にある「夕べの祈り」である。主イエスが息を引き取られた午後3時、ユダヤ人たちは夕べの祈りをささげた。一日の終わりである日没へ向かう中で。そしてユダヤでは日没と共に新しい一日が始まる。
ですからこの夕べの祈りは一日の終わりの祈りであり、新しい時の備えの祈りでもある。主イエスが十字架で祈った、この祈りも終わりだけでなく、始まりを意味する。主イエスの命による和解と平和の始まりである。
この始まりを示す出来事として「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。神と人とをさえぎるへだてが、主によって取り払われた。主の十字架の死によって神と人との和解が実現し、人に神に至る道が切り開かれた(ヘブライ10:19参)。
さらにこの時、もう一つの隔ての壁が崩された。それは人と人との間の隔ての壁である(エフェソ2:14参)。私たちは、主の十字架によって、隔ての壁が取り除かれ、神と和解し、隣人と一致する。 この出来事を目撃した百人隊長は「本当に、この人は正しい人であった」と告白する。十字架で死なれた主は神の義(正しさ)を貫かれた神の子であったという告白である。私たちも十字架の主への信仰を告白し受難週を歩もう。