許された罪人

「赦された罪人」

詩編32章1~7節/ローマの信徒への手紙4章1~8節

熊江秀一牧師

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ローマ書4章で、パウロは信仰義認を旧約聖書で立証するために、アブラハムとダビデを登場させる。

 アブラハムはユダヤ人にも、私たちにも、大切な、先頭を歩む人物である。ユダヤ人にとってのアブラハムは、律法が与えられる前に、律法を完全に守った、行いが義とされた人物であった。しかしパウロは、彼は行いでなく「神を信じた。それが彼の義と認められた」と創世記15章6節が証しする、信仰によって義と認められた人物であると宣言する。

 しかもパウロは、このアブラハムの信仰は、決して完璧な信仰ではなく、「不信心な者を義とされる方を信じる信仰」であると告げる。

 「不信心な者」とはアブラハム自身のことである。聖書はアブラハムの失敗も隠す事なく書き記している。これはアブラハムの信仰が、不信心なものを義として下さるという、神の恵みの信仰に立っていたことを示している。それは信仰の本質である。

 さらにパウロはそれを立証するために、ダビデも登場させる。理想の王と呼ばれた彼も不信心な者を義とされる神の恵みの信仰に生きた。ダビデは歌う。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである」。これはダビデ自身の姿である。

聖書の罪の赦しとは、罪は罪と認めて、その責任を取ることによって罪が赦されることである。しかし罪の責任は自分では償うことができないほど大きい。その罪の責任を神が代わって下さる。キリストが十字架によって担って下さると聖書は教える。私たちは罪人である。しかし私たちはキリストの十字架によって罪赦された罪人である。この主の恵みを信じて生きる信仰に、私たちに幸いがある。

旧約聖書のアブラハム、ダビデによって証しされるこの信仰の恵みに生きよう。

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