神の怒りと憐れみ(2021/7/11)熊江秀一牧師

■聖書:
ローマの信徒への手紙9章13~29節
マラキ書1章2~5節

■説教要約:
「神は憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」。今日の箇所は、人は意志や行いに関係なく、永遠の滅びか、永遠の命に予定されるという予定説の根拠となった。
しかしパウロは恐怖や諦めを起こさせるためにこの御言葉を語ったのではない。私たちがまず神の前に謙虚になり、神のご計画を信頼して歩むことが問われている。パウロはマラキ書を引用して「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてある。・・・神に不義があるのか。決してそうではない」と断言する。私たちは兄弟の一方を選び、一方を退けるという神の姿に触れるとつまずきを覚える。しかし神の愛はすべてを全く同じように扱う愛ではない。時に愛ゆえに一方を退ける。しかし神はエサウに対しても愛を注ぎ、エドム民族の祖として祝福された。私たちは自分の常識や価値で神の愛が気に入らないなどと決して言えない。人の寿命や、置かれた環境が異なるように。むしろ私たちはそこで神に生かされている恵みを数えることが大切である。
そしてその時に何よりも目を向けるべきはキリストである。パウロは焼き物師と器の比喩を語り、神が人を「憐れみの器」(救われる者)と、「怒りの器」(滅ぶ者)に造る権限があると語る。しかしそれに続いて、神は「怒りの器」である私たちを、寛大な心で耐え忍び、「憐みの器」として下さったと宣言する。この神の憐れみこそがキリストである。キリストはご自分を犠牲にして、私たちを執り成し、「憐れみの器」として下さった。
「怒りの器」は、今やユダヤ人も異邦人もキリストによって「憐れみの器」として招かれている。この福音を宣べ伝え、主をほめたたえつつ歩もう。

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