礼拝説教要約「時をよく用いる」(2022/7/17)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所

エフェソの信徒への手紙 5章15~20節   箴言 1章1~7節

■説教要約

今日の箇所には、私たちが光の子としてどう歩むかが教えられている。今日はその総論である。
まず「賢い者として」歩むように勧められている。この賢さは学業成績ではない。キリストの光に照らされて「細かく気を配って」歩むことである。箴言にはそれが「主を畏れる」ことから始まると教えられる。そこに私たちの命の源、生きる道がある。

 この賢さを示し、パウロは「時をよく用いなさい」と勧める。今の「時」はよい時ではない。むしろ「今は悪い時代」である。悪い時に、賢さを持って、時をよく用いるように勧める。これが光の子であるキリスト者の生きる姿である。悪い時代だと人が諦め、投げ出してしまうような時に、「細かく気を配って」歩む。キリストの光に照らされて、その光を輝かせて歩むのである。

「時をよく用いる」ためにいつも心掛けるべきことがある。それは「主の御心が何であるかを悟る」ことである。時が良くても悪くても、自分の思いではなく、主が喜ばれることをまず求めるのである。

しかし私たちの現実は主の御心に生きることに鈍く「酒に酔いしれて」いる現実である。これは過度の飲酒を含め、この世の一時の喜びや快楽に心奪われ、主に心を向けること鈍い私たちの姿である。

パウロは「それは身を持ち崩すもと」と言う。むしろ「霊に満たされ」「詩編と賛歌と霊的な歌によって」ほめ歌うように勧める。そこに私たちの喜びがある。

この賛美から感謝が生まれる。 感謝とは恵みを喜ぶこと、神の恵みを数えて喜ぶことである。

光の子として歩むとはキリストの光に照らされて、恵みを見出し、賛美と感謝にあふれて歩むことである。また神を畏れ、時をよく用い、御心を喜ぶのである。光の子として、共に歩もう。

  

 

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