礼拝説教要約「信仰によって義とされるとは」(2022/11/20)を掲載しました

担当   藤掛順一牧師 (日本基督教団 横浜指路教会)

■聖書箇所

ヨハネによる福音書 15章11~17節   イザヤ書 55章1~3節

■説教要約

  信仰によって義とされる、私たちのプロテスタント教会の信仰の基本です。宗教改革によって、プロテスタント教会は、カトリック教会から枝分かれしました。
義とされるのは何によってか、が問題でした。カトリック教会は、「信仰と良い行いによって」。プロテスタント教会は「信仰によって」。良い行いは条件になりません。

 ハイデルベルグ信仰問答、問60で「どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか」に対する答えに「ただ、イエス・キリストを信じる、まことの信仰によって」とあります。罪の中にいて、今も悪に傾く私たちに、神は、ただ恵みによりキリストの完全な贖いと義と聖を、私たちのものにしてくださいました。あたかも私たち自身が成し遂げたかのように。それはイザヤ書55章で語られたように、銀を払うことなく、値を払うことなく、救いを信じて受け入れるだけで義とされるのです。

 しかし、これでは、人は良い行いに励もうとする分別を失い、好き勝手に生きるのではないか、という疑問が生まれます。ハイデルベルグ信仰問答、問64で「この教えは無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」とあるとおりです。

 その答えは、ヨハネによる福音書15章にあります。主イエスは、互いに愛し合うことを命じると同時に「あなたがたはわたしの友である」と言われます。友は相手の思いや願いを知っています。相手の思いを知って応えようとします。主イエスは、私たちに友となって生きることを願っておられます。私たちは、主イエスに選ばれ救われました。主イエスの御心を知って、それに応え自分も自発的に主イエスを愛し、人々を愛して生きようとします。それが主イエスを信じて生きること、信仰によって義とされた新しい生き方です。

 私たちは主イエスの友として、主イエスの愛に応えて生きるという感謝の実を結ばないことなどあり得ない、無分別で好き勝手に生きることはあり得ないのです。


 

  

 

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