礼拝説教要約「主の憐れみによって」(2024/11/10)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 10章46節~52節 創世記 32章25節~31節
主のエルサレムの旅の最後に、主は盲人バルティマイと出会う。
虐げられ、物乞いをしてきた彼は、主がエリコに来られたことを聞いて「私を憐れんで下さい」と必死に叫んだ。しかし人々は彼を黙らせようとする。彼はそれでも叫び続けた。
主はこの叫びを聞き、立ち止まり、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と伝える。「安心しなさい」は「喜べ」「勇気を出しなさい」とも訳せる。私たちは主に呼ばれ、主が出会って下さる中で、喜び、安心し、勇気を出して、立ち上がることができる。彼は躍り上がって主のもとに行った。
この時、主は彼自ら来させた。主が求めておられることは主の招きと御言葉に対して、私たちが応え、立ち上り、歩み出すことである。
この時、彼は「また見えるようになりたい」と願った。「見える」は視力の回復に止まらず見るべきものを見るという意味がある。今回「また」が加えて訳された。彼は元々目が見えていたが。見えなくなった。彼の叫びは罪によって見えなくなった私たちの叫びでもある。
そんな彼に主は「あなたの信仰があなたを救った」と宣言して、目を開く。
盲人は叫んでいただけでした。しかしそれを主は「信仰」と宣言された。信仰とは自分の信仰ではなく、主の信仰(真実)である。主はご自分の命を捨てて、真実の限りを尽くした。この主によって私たちの目は開かれ、信仰は与えられる。
彼は「なお道を進まれるイエスに従った」。その信仰の生涯は人々に主の証しとして語り継がれた。
「耐え難き 苦難を神は 与へずと 盲(めし)いて逝きし 姉は語りき」。
目の不自由な中で信仰の生涯を歩まれた新津教会の姉は、妹さんに喜びを持って主を証し続けた。私たちも主の憐れみの中で、主の道に従って歩もう。