御心が行われますように(2021/1/24) 高橋真之伝道師

「御心が行われますように」

詩編130章1~8節/マタイによる福音書26章36~46節

高橋真之伝道師

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十字架にお架かりになる直前、イエス様はゲツセマネの園において祈られました。この祈りには、十字架を前にしたイエス様の深い悲しみと嘆きがあらわれています。

ところで、このイエス様の姿を見てこのように批判する人たちが昔からいます。「このように死を前にして嘆くのは神の子に相応しくない。」しかし、この批判は的を外したものだと言わざるを得ません。なぜなら、ここでイエス様が悲しまれたのは、イエス様が「死」というものの恐ろしさを唯一人知るお方であったからです。聖書が言う「死」とは、単なる肉体の限界のことではなく、神様から裁かれ捨てられることです。これの恐ろしさを本当に知るのは、ただイエス様おひとりです。だから、イエス様はここで深く悲しみ、できるならば十字架に架かりたくないとさえ言っているのです。しかし、イエス様は十字架から退かれることはありませんでした。むしろ、「御心がなりますように」と祈り、十字架への道を歩まれるのです。どうしてでしょうか?

それは、この十字架なくして私たちの救いはないからなのです。そしてまた私達が心にとめておきたいことは、その私達の救いが「神様の御心」であると言われていることです。この神様の御心をイエス様は、ご自分が十字架にお架かりになることになっても、成し遂げてくださったのです。

私達は主の祈りにおいて「御心がなりますように」と祈りますが、それは叶うか叶わないか不確かなものを求めるように祈るのではありません。神様の御心をイエス様が成し遂げてくださいましたから、私達は確信を持って祈ることが出来るのです。私達は「目を覚まして祈っていなさい」と言われた主の言葉に従い、祈り続けていきたいと思います。

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