命を受けるために(2020/09/13 熊江秀一牧師*説教音声あり

「命を受けるために」

哀歌3章22~27節/ヨハネによる福音書20章28~31節

熊江秀一牧師

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ヨハネ福音書は元々20章で一度、書き終えられた。30節以下はその「あとがき」である。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」。このことは聖書を読む上で忘れてはならない。主のしるしは聖書に記されている以外にも沢山ある。主は今も生きておられる。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」。

聖書は何のために書かれたのか。「イエスを神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この神が聖書を与えた目的を忘れてはならない。十字架で殺されたイエスを神の子、救い主と信じるために、イエスの名により命を受けるために聖書は書かれた。 「イエスの名により命を受ける」を、ある人が「イエスに包まれて(ラップされて)命を受ける」と言い換えた。食物を保存する時、ラップをするように、また品物を綺麗にラッピングするように、私たちは主に包まれる。その時、私たちは取るに足らない者であっても、神の子と認められ、主の命をいただく。信仰者の歩みが支えられ、悪から守られる。

エルンスト・バルラハの作品に復活の主とトマスとの再会を形作った「再会」がある。十字架の釘跡残る両手で復活の主がトマスを抱く作品である。ナチスの時代、彼の平和を願う作品は犯罪的と価値を徹底的に否定された。その中で彼は亡くなる。その極限状況の中での彼の姿がこの作品に込められる。倒れそうな歩みを、復活の主が両手で包み、支えて下さる。そして彼はトマスと共に告白する。「わたしの主、わたしの神よ」。今日、この福音書が書かれた目的を心に刻みたい。

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