十字架につけられた王(2020/06/21 熊江秀一牧師)*説教音声あり

「十字架につけられた王」 申命記21節22~23節/ヨハネによる福音書19章8~16a節

熊江秀一牧師

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主が十字架の判決を受けた箇所が与えられた。ピラトは、無罪でありながら十字架刑を求められる主イエスに対し、再び尋問する。この時、ピラトは感情的になっていた。それに対して、主は冷静に人の罪を指摘する。裁くべきピラトと裁かれるべき主イエスが逆の姿になっている。特に13節は不思議な言葉である。裁きの席に着いたのはピラトではなく、主イエスの方だと言われている。ここにはヨハネの思いが込められている。主の裁判は、実は主によって私たちの方が裁かれているのである。

ユダヤ人たちは「殺せ。十字架につけろ」「私たちには皇帝のほかに王はありません」と叫んだ。彼らは愛の神を殺し、この世の王を求めた。私たちにとって王はどなたか。 私たちは主イエスをわたしの王としてお迎えしているだろうか。むしろ世の権力者や自分自身を王としていないか。王としての主を十字架につけて殺していないか。

ピラトは問う。「あなたたちの王を・・・十字架につけるのか」。そして主を示して言う。「見よ、あなたたちの王だ」。これは前回の「見よ、この男を」と共にしっかりと心に留めたい。そしてヨハネは繰返しこの福音書で主の姿を宣言する。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

この福音書では「過越祭の準備の日の正午ごろに」過越の小羊が屠られる時刻に十字架刑が下る。主は過越の、世の罪を取り除く神の小羊として十字架で殺される。

「見よ、この人を」「見よ、あなたたちの王を」「見よ、この世の罪を取り除く神の小羊」。十字架の主の姿をしっかりと見つめ、この方が私たちの罪を取り除く神の小羊であることを、私たちの王であることを心に刻みたい。

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